寺輪悟の闘い




寺輪悟の闘い

寺輪悟

てらわさとる


https://www.npa.go.jp/hanzaihigai/whitepaper/2024/zenbun/part2_chapter3/s2_3_1k02.html


警察庁 National Police Agency

犯罪被害者等施策  >  犯罪被害者白書  >  令和6年版 犯罪被害者白書  >  講演録 あなたが突然、犯罪被害者遺族になったら・・・


第2部 第4次犯罪被害者等基本計画に盛り込まれた具体的施策の進捗状況

第3章 刑事手続への関与拡充への取組

[目次]  [戻る]  [次へ]


1 刑事に関する手続への参加の機会を拡充するための制度の整備等(基本法第18条関係)

講演録 あなたが突然、犯罪被害者遺族になったら・・・

寺輪 悟(犯罪被害者御遺族)


●はじめに

娘の事件が起きた当時、三重県では、犯罪被害者支援条例もなく、いろいろな苦労がありました。事件に遭う、そんな世界とは全く無縁でした。


事件から10年、いろいろな苦しみや困難が私たち犯罪被害者遺族にはありました。私の経験が、今後の全国における犯罪被害者支援の発展に役立てられればと思い、僭越ながらお話をさせていただきます。


私が一番お伝えしたいことは、いつ犯罪被害者、犯罪被害者遺族になるか分からないという現実があるということです。話を聞く上で、皆さんの頭の中に、お父さん、お母さん、恋人、誰でもいいです。もしこれが自分の身に起きたことならどうなるのだろうと頭に入れながら聞いてくれれば幸いです。


●事件の発生

私は事件当時45歳の自営業、妻は45歳の看護師でした。お兄ちゃんは大学1年生、長女は高校2年生、博美は中学3年生でした。どこにでもいる平凡な普通の家族でした。


博美は平成25年8月25日の花火大会の日に、三重県朝日町の路上で、当時18歳の少年に鼻と口を背後から手でふさがれ、空き地に連れ込まれて殺害されました。娘は誕生日を迎えたばかりの15歳とたった3日でした。


一緒に花火を見に行った友達にも声をかけたのですが、「花火が終わったあとは普通に別れたよ。帰ったはずだよ」と。何か事件に巻き込まれたのではと思い、深夜にもかかわらずその足ですぐ警察署に行きました。


警察官の対応はすごく良く、すぐ捜索願を受理してもらい、こまめに捜査内容を連絡してくれました。最後にくれた1本の電話で「博美さんとよく似た年頃の御遺体が発見された」と連絡がありました。私はすぐ仕事を切り上げ、自宅に帰ろうとしましたが、家が近づくにつれ、生活道路は規制線が張られて通行止め、赤色灯を回した警察車両が列を成し、私はただごとではないと思いました。しかしまだ心の底では、人違いであってほしいと強く願っていました。


私と妻とお姉ちゃんとでお兄ちゃんを待ち、警察署に行きました。警察署に着いた途端、マスコミ各社がものすごい数いました。密室で2時間ぐらい閉じ込められたと思います。今思えば、私たちをマスコミから守ってくれたと感謝しています。それから死体安置所まで向かいました。


到着すると、今まで嗅いだことのないようなものすごいにおいが私の鼻をつきました。今でもそのにおいは鼻から取れません。


人の遺体を見るのは初めてでした。まさかそれが自分の探していた娘になるとは夢にも思っていませんでした。私はお兄ちゃんとお姉ちゃんには、とっさに判断し、「車で待っていろ。私と妻で先に確認しに行く」と言って、部屋の中に入っていきました。係の人が白い袋を開けた途端、見るも無残な変わり果てた遺体がありました。それでも、ひと目見た瞬間、探していた博美だということはすぐに分かりました。


私と妻は「間違いなく私の娘です」と言ってその場をあとにしました。表に出ると、お兄ちゃんもお姉ちゃんも「私も会いたい」「俺も会いたい」と。しかし、どうしてもあの姿は、お兄ちゃんとお姉ちゃんには見せられなかった。それだけひどい状態だったのです。半ば無理やり、力ずくで車に押し込み、「なぜだ!なぜだ!」とお兄ちゃんは私をどつき、お姉ちゃんも私に突っかかってきました。


●犯人逮捕

平成26年3月2日、少年が逮捕されました。現在、少年はもとより、少年の家族からの謝罪はもちろん、1本の電話や1通の手紙もありません。


襲って倒れている博美を置いて現場から立ち去った時、少年は何を感じていたのか。良心もなかったのか。私は後の裁判で、加害者の少年から「立ち去る時は博美が生きていた」と証言されたことが大変悔しかったです。博美をひどい目に遭わせておきながら、少年は半年以上平静を装い、普段通りの生活をし、自分のことばかり考えていた身勝手極まりない犯行です。


●様々な困難

一番初めに大変だったのはマスコミ対策でした。家中を報道陣が取り囲んでいました。私たちは家に入れず、4人でビジネスホテルに泊まりました。テレビをつければ報道番組が勝手な模索をし、ありもしないことを報道していました。顔写真やプリクラ、一気に日本中に放送されました。葬儀場の中にまで、友人のふりをして入ってくる者もいました。1日にして、日本中に寺輪博美という名前は知れ渡りました。


次に、私たち4人家族は、自分たちでは動くことも、食べることも、寝ることも、時間も、全く関係なくなりました。私は1か月で17キロ痩せ、ストレスで歯も3本抜けました。


その頃、犯罪被害者支援センターのサポートがすぐに入ってくれました。動けない私たちを半ば無理やり担ぎ、車に乗せ、精神病院に連れて行かれました。その精神病院が、私たちが社会復帰をするのに、ものすごく威力を発揮したことを私は痛感しています。


悲しみを小さくするにも個人差があるようです。私も長男も長女も構わず当たり散らしていましたが、妻だけは気丈に振る舞っていました。私たちはそれに全く気付きませんでした。自分のことばかり考えていました。


少しずつですが、一人一人が社会に関わりを持ち、世に出ていこうという時に、ようやく妻は博美と心ゆくまで向き合えるようになったのだと思っています。泣きたい時に泣けない、悲しい時に悲しめない、感情を押し込んだ場合、悲しみの大きさが小さくなるのは、非常に遅くなるそうです。妻は外に出られるようになるのに6年かかりました。妻に目いっぱい悲しませてやれなかったことがなかなか社会復帰できなかった要因だと思っています。


そして、生活していくにはお金がかかるという現実があります。電気、ガス、水道、家賃、市・県民税から全て事件に関係ありません。貯蓄がなければ、悲しんでもいられない現実もあります。国が私たちにしてくれたのは、320万円、それだけです。


当時、県にも市にも条例はありませんでしたから、何もしてくれませんでした。つらいことがあっても、自力で頑張ってください。そう言われているような気がして、当時は何も思いませんでしたが、今思うと非常に冷たいな、寂しいなと思っています。


●刑事裁判

犯人が捕まってからは裁判という苦しい日々が始まります。犯人は、当時18歳の少年でした。少年法改正前の事件です。


初めて私がこの男に会ったのは家庭裁判所です。私は顔を見るなり、すぐさま殴りかかりにいきました。しかし加害者は看守3人に守られていました。


残念なことに起訴事実は殺人に持っていくことはできませんでした。最初の逮捕容疑は強盗殺人。しかし殺意が認定できず、博美は死んでいますから、博美の言い分は聞けない。加害者の言うことありき。検察側は、強制わいせつ致死と窃盗、かなり落とされた罪で起訴しました。


そして、少年は裁判員裁判で9年の不定期刑となりました。最高10年の不定期刑にもならず、1年減刑されました。裁判官、検察官にとってはひとつの事件に過ぎないかもしれませんが、私たち家族にとっては一生に一度の、重要な、重大な裁判でした。


この裁判は殺された博美の無念、遺族が仇を取る裁判とは違う、生きている加害者の刑をみんなで決める裁判だと、素人の私でも気付きました。そこに犯罪被害者の想いは全く入っていませんでした。


●仮釈放

令和4年10月、刑期満了が近いということで、男が収容されている刑務所の管轄する保護観察所から仮釈放に関する書類が送られてきました。


少年が収監されて以降、一度も博美に対する謝罪の意を表したことがないこと、全く誠意や反省が見受けられないことを理由に反対意見を出しました。最初に来たのが、刑事施設の長から仮釈放を許すよう申し入れましたと。次に意見陳述をするなら、意見等陳述書を1通書けという書面が来ます。


令和5年1月、仮釈放が許可されませんでしたと通知が来ました。私はすごく喜びました。もう出ることはないだろう。8か月しかないんだからと思っていたら、3か月目にまた届きました。これも同じ文面です。今回は仮釈放が許可されました。「今までの手続は何だったんですか」ということを保護観察所に電話して聞きました。しかし、まともな回答は返ってきませんでした。私たちはこの仮釈放を鵜呑みにするしかありませんでした。


●民事裁判

刑事裁判後、少年やその両親に足かせをつけようと民事裁判も起こしました。民事裁判でも起こさなければ、加害者とどういうようにつながるのか。そういう裁判所の手続ひとつで唯一加害者とつながっているのです。


博美に対しての損害賠償請求は7,700万円。1円ももらっていないし取れるわけもない。損害賠償請求というものは、10年の時効があり、10年たつ前に、こちら側が裁判をかけなければいけない。私は加害者が7,700万円という負債がなくなり、身軽に人生を歩くことがどうしても許せない。取れるわけがなくても、私はまた裁判を起こすでしょう。そうでもしなければ、加害者が楽になるような気がするのです。それがどうしても悔しい。


刑務所にいる間、それは自分がしたことについての罰であって、刑務所を出てからが償いだと思っています。しかし世間では、刑務所を出れば全て許された風潮がはびこっていると思います。私はそれをどうしても許すことができません。


損害賠償の立替制度や再提訴費用についても、自治体として機能しているところはほんの数箇所ですが、国に対しても導入を求めている状況もあります。この制度があれば、被害者遺族が何年にもわたり、加害者に請求し続ける苦しみから解放されること。加害者のことを考えなくてもいい。心の負担が、ストレスが、どんなに激減されるんだろうと、犯罪被害給付金の増額だけではなく、この点についても今後議論していただきたい。


●周囲・地域の支え

最初に助けてくれたのは仲間でした。私は途中で独立しましたが、社長は家族4人が3年間暮らせるぐらいのお金を用意してくれました。すごく心強かったです。「これだけあれば、しばらく休めるだろう。何年たってもいい。必ず戻ってこいよ」と。


妻も看護学校を出てから、一人の院長についていました。夫婦で来てくれて、「マスコミが大変なら、私たちの使っていない別荘がある。好きなだけいたらいい」と。そして現金も置いていってくれました。


お兄ちゃん、お姉ちゃんもそうです。みんなが顔を見に来てくれました。とりあえず顔が見たいと。悲しい時、つらい時に抱き合える友人がいた、これはかなりの救いになりました。自分の職場から理解をされること、単に経済的に助けられたということではなく、社会の中で孤立していない、一人じゃないというのが安心感につながりました。


しかし、母子家庭、父子家庭、周りから嫌われている人、友達がいない人、その人たちはどうなのでしょう。犯罪に巻き込まれ、ましてや遺族になれば、受ける悲しみは同じなのに、なぜ開きがあるのか。私はどうしても納得できませんでした。


いろいろ模索した結果、犯罪被害者支援条例がないことに気付き、県に働きかけ、29市町1軒1軒まわり、時間もかかりましたが、今では全ての29市町、県に、要綱もありますが、一応条例はつくっていただきました。


条例のある県とない県では、事件後の遺族の社会復帰に大きな差がある。住んでいる県によって格差があってはならない。遺族の悲しみは同じです。自分の住んでいる自治体、県を頭に、市町村、そこに条例があればどんなに心強いことかと私はつくづく思います。


●おわりに

犯罪被害者として、この10年間苦しみ続けてきた。これから先どんな苦しみが待っているか。いつまで皆さんの前で私は話ができるのでしょうか。今一度御自身のことに置き換えて考えていただきたい。私のように声を上げる犯罪被害者遺族は限りなく少ないと思っています。声を上げなければ皆さんが気付いてくれない。それが大変残念でならないことです。


私は娘を奪われ、守れなかった自分を責め、崩れていく自分の精神、ほかの家族を支えることもままならない、自分の無力さを味わいました。そして、この苦しみは時間と共に消えるものでもありません。生きているうち続くでしょう。どうか多くの人たちが犯罪被害者、遺族のことを理解し、支援の必要性を一人一人想ってください。自分自身のように考えてください。


今日この会場の中の、一人でもいいです。その一人が、今日眠る前、帰る時でも、1分でも30秒でも10秒でもいいです。私の話を少しでも考えてくれれば、この東京に来た甲斐があると思っています。


話を聞いてくださり、誠にありがとうございました。


※本講演録は、令和5年度犯罪被害者週間中央イベントにおける基調講演の概要をまとめたもの。


[目次]  [戻る]  [次へ]


このページの先頭へ

https://www.kyodonews.jp/news/domestic/2024/post-161.html




娘と2人、あらがい続ける【生き抜く】㊼「犯罪被害者遺族」

 「何かあるって思いたいんだよ。あいつが生まれてきた意味が」。三重県四日市市で運送業を営む寺輪悟(56)が唇をかみ、言葉を詰まらせる。写真の中では制服姿の次女博美=当時(15)=がほほ笑む。2013年8月25日の花火大会の夜、18歳だった見知らぬ少年に命を奪われたまな娘。


 一歩進むごとに、社会のとげに刺された。そのたびに博美がもう一度殺された気がした。事件のことを話すのはいつも苦しい。それでも、鋭いとげにあらがいながら生きる。「これは俺とあいつ、2人の闘いなんだ」




「ここに来るのは好きじゃない」とつぶやいた寺輪悟。取材のために案内した事件現場で線香を供え手を合わせた=2024年9月、三重県朝日町


 ■事件


 「今日起こったことは今日けじめをつけろ。持ち越すな」。それが社長の口癖だった。豪快で思い切りが良い。ほれ込んだ彼の会社に21歳で入った。大型トラックに乗り、がむしゃらに働いた。


 25歳で一軒家を建てて結婚、長男が生まれた。仕事も独立し、やがて長女と末っ子の博美が加わり5人家族になった。


 「ドア」「お風呂」「2階」「上下」。家のあちこちに描かれた子どもたちの落書き。「好きなだけやれ、おまえたちの家なんだから。その代わりよそではやるなよ」。毎年それぞれの誕生日に、身長を壁に刻んだ。あの年、事件の3日前だった博美の誕生日にも。


 博美は自分と性格が似ていた。気が強くて、物おじしない。車やバイクが好きなところも同じだ。友達思いでさっぱりとした子だった。


 事件の夜、博美は一緒に花火を見た友達を家の近くまで送り届けた帰り道に男子高校生に襲われた。警察から連絡が来たのは、博美がいなくなってから4日目の午後。「近所の空き地で、娘さんとよく似た年頃の遺体が発見されました」。寺輪は職場から家に急いだ。


 見慣れた道路に張られた規制線。赤色灯を回す警察車両の列。上空を飛ぶ何機ものヘリコプター。報道陣から向けられたカメラのフラッシュ。断片的な記憶が強い印象となって残る。この日を境に、人生が一変した。




犯罪被害者や遺族の支援について考えるシンポジウムで、自らの体験を話す寺輪悟。「どんな人でも被害で受ける苦しみは同じ。支援に格差が生まれてはいけない」=2024年10月、東京都千代田区


 ■裁判


 2015年3月、被害者参加制度を利用し、元少年(当時は19歳)の裁判員裁判で津地裁の法廷に立った。黒い背広を着て元少年に対峙(たいじ)する。


 逮捕から1年、待ち続けた瞬間だった。犯行時、何を考えていたのか。博美は抵抗したのか。現場を去る時、博美の死を認識していたか―。だが元少年はうつむき、沈黙していた。


 「量刑のことはどうでもいい。娘の最期が知りたいだけだ」。怒りが込み上げ、涙がにじむ。あふれた言葉が法廷の宙を舞った。元少年が真実を語ることはなかった。


 それでも裁判に参加して良かったと思う。検察官の隣に座り、自分の耳で裁判を聞く。元少年の顔を見詰め、自分の口で問いかける。そのプロセスは絶対に必要だった。


 被害者や遺族が法廷の柵の内側に入り、裁判に参加できる被害者参加制度が施行されたのは2008年。それまでは、遺族であっても傍聴席に座るしかなかった。自分と同じように、家族を事件で失った犯罪被害者遺族が声を上げ、制度が実現したことを知った。


 同じ経験をした先人たちのおかげで、今がある。普通ではない経験をしたからこそ、自分にもやるべきことがあるんじゃないか。博美の死を無駄にしないためにも―。




博美さんの写真などが飾られた部屋で、インタビューの合間に一瞬の笑顔を見せた寺輪悟=2024年9月、三重県四日市市


 ■闘い


 事件から約5年たち、新たな闘いを始めた。18年に犯罪被害者支援条例の制定を要請する手紙を三重県知事に送ったのだ。これを皮切りに、県内の全自治体を回り、条例制定を働きかけた。


 博美は命を落とした時に人権をなくした。報道やインターネットに実名や顔写真があふれ、戸籍も通帳も失った。


 事件の数日後、自宅に一通の封筒が届いた。博美の死体検案にかかった費用の請求書だ。大切な娘が「屍(しかばね)」と記されていた。悪意はないかもしれない。だが、そのとげは心に突き刺さった。


 犯罪被害者遺族になった自分だからこそ、気付いたことがある。警察官や支援者、刑務官...。犯罪被害者を取り巻く人々に訴え続ける。


 自分が口を開くことで世間は事件を思い出す。「せっかく少し落ち着いてきたのに、なんで...」。周囲の人の言葉に、痛みが胸をかすめる。だから自分と博美、2人だけで闘う。新たに生まれる犯罪被害者遺族が、自分たちと同じ痛みに苦しまないように。一つ一つ、とげを取り除く。


 被害者が声を上げづらい社会だと思う。好奇の目にさらされ、心ない言葉をぶつけられることもある。何をしても、大切な人は戻ってこない。でも「悪いことは何もしていない。コソコソ生きる必要はない」。自分が口を開くことで、社会が少しでも変わればいい。


 家に帰れば、今も事件当時のままに博美の息遣いが残る。博美はいとしい娘であり続けている。


 【もっと知るために/不平等解消する支援を】


 犯罪被害者やその家族は、事件後、強い精神的ダメージを受ける。加えて治療や休業を余儀なくされたり、働き手を失ったりすることで、経済的な負担を強いられることが多い。


 2004年に犯罪被害者基本法が成立し、被害者の保護は国や地方自治体の責務と明記された。


 支援に特化した条例の制定は全国の自治体に広がっているが、地域による格差もあり、包括的な支援への課題は多い。琉球大法科大学院教授の斎藤実は、条例の意義をこう語る。「犯罪で受けた被害は決してゼロにはならない。その不平等を少しでも解消することが社会保障の役割だ」


 誰もが犯罪の被害者になり得る。生活を守りながら、時間をかけて被害と向き合い、社会に戻るための息の長い支援が求められている。




 (敬称略/文は共同通信津支局記者・吉田亜美、写真は共同通信編集委員・今里彰利/年齢や肩書は2024年11月23日に新聞用に出稿した当時のものです)



https://news.yahoo.co.jp/articles/63741ef326ef091e15e5d3c96b0f6505a047dba1


事件から数日後、真夏の空き地で発見された15歳娘 対面した父の絶望「変わり果てた姿でも、顔を見て一目瞭然でした」【女子中学生殺害遺棄事件/第2話】

8/23(日) 6:00配信



1418

コメント1418件



RSK山陽放送


RSK山陽放送


「本当に彼女が自由にした時間は、ごくわずかな時間だったというふうに思っています」


2013年8月25日、三重県朝日町で、花火大会から帰宅中の女子中学生が見ず知らずの男子高校生(当時18)に殺害された上、自宅から750m離れた空き地に遺棄されました。


【写真をみる】新体操に打ち込む博美さん


命を奪われたのは、当時中学3年生の寺輪博美さん(15)です。


博美さんの父・寺輪悟さん(58)が事件で娘を失った耐え難い経験、マスコミによる理不尽な取材、娘を殺害した少年の裁判、事件によって突然奪われた平穏な生活、当時の心境について語りました。


そして、寺輪さんは「あって困る人はいない」と、全国の都道府県・市区町村単位で約6割ほどの制定にとどまる『犯罪被害者支援条例』について、全ての自治体で必要だと強く訴えました。


【第1話】から続く

愛娘は「茂みに連れ込まれ、口を押さえられて殺された」花火大会の帰り、高校3年生の少年に殺害された父が語る当時の記憶「新体操の選手を目指して一生懸命頑張っていました」


■『今日は博美さんが来ていない』塾からの連絡


幼少期から新体操に打ち込んできた博美さんは、自由な時間がほとんどありませんでした。


高校受験を控えた中学3年生になり、新体操から離れようやく普通の中学生らしい生活が送れるようになりました。8月25日の夜、博美さんは花火大会に出かけ事件に遭います。寺輪さんは、事件当日の状況を語ります。


(寺輪 悟さん)

「帰りが遅くなろうが何をしようが、悪いことをする子ではありませんでしたから。普通の中学生ですし、頑としてそんな誘惑には乗らないだろうというような自負もありました。ですから、本当に彼女が自由にした時間は、ごくわずかな時間だったというふうに思っています」


「そんな中、事件に巻き込まれてしまいました。それでもまだ、『どこかにいるんだろう』ということで、全然危機感はありませんでした」


「『ふらっと帰ってくるだろう』、、、とても友達も多く、幼馴染もたくさん地域に住んでいますし、どこの家族とも親ぐるみで付き合いをしていました。私の幼馴染もいますし、後輩もいます。ですから、何の疑いもありませんでした」


「ところが、高校受験を前に、博美は塾というものに通い始めました。そこの塾から電話がかかってきたんです。『今日は博美さんが来ていない』」


私は、それを聞いてゾッとしました。そんなサボることはありませんでしたから、いろいろ連絡を取ったんですが、携帯は鳴るんですけど電話は出ません」




事件から数日後、真夏の空き地で発見された15歳娘 対面した父の絶望「変わり果てた姿でも、顔を見て一目瞭然でした」【女子中学生殺害遺棄事件/第2話】

8/23(日) 6:00配信



1418

コメント1418件



RSK山陽放送

■行方がつかめず警察に相談


博美さんを探しても一向に見つからず、手がかりを求め警察へ相談します。しかし、ここから事態は予想もしなかった深刻な方向へと動き出します。


(寺輪 悟さん)

「四方八方を探しました。しかし、一向に見つかりませんでした。それでもまだ、事件に巻き込まれるという自覚はありません。思いもよらない」


「とうとう探すところがなくなってしまったものですから、四日市の警察署に夜に行きました。『娘がいなくなったんだから、ちょっと探してくれないか』『何か、どこかで保護された連絡はないか』」


相談を受けた警察は、寺輪さんに寄り添い、博美さんの行方を探します。


(寺輪 悟さん)

「『(情報は)ありませんね、なら探しましょう』と。夜にもかかわらず、四日市の警察署は、快く対応してくれました。それから、ちょっとずつ事件に関わっていきます」


「ここからは事件発覚からの話です。何度か警察とやり取りをするうちに、『警察犬を出す』というような連絡もありました。


『じゃあ犬を出したらどうなるんだ。警察犬を出したとしても見つかるわけない』と」


■警察から『娘さんらしき遺体が発見された』と連絡


「まだ事件とは無関係だと思いたい」そんな切実な願いとは裏腹に、事態は容赦なく進行していきます。


(寺輪 悟さん)

「まだそこで、私は能天気だと思っています。そして仕事中、1本電話があります」


「警察官の方からは、『警察署に来てほしい』というような連絡を受けました。ですから私は仕事を切り上げ、早めに自宅に帰ろうとしたところ、1キロ先からも、今もまだその光景は覚えているんですけども、赤色灯を並べた生活道路に、いっぱいの警察車両が停まっていました」


「規制線が張られ、上空にはヘリがブンブンブンブンと飛んでいます。『なんだこれ』って。まだ私は事件とは無関係だと思っています。認めたくないですよね、ここまで来ても」


「ものすごい報道の数です。中継局もいました。『ただ事じゃないんだな』と。しかし、まだその時点で身元が分かっていませんから、誰も報道関係は声をかけることはありません」






事件から数日後、真夏の空き地で発見された15歳娘 対面した父の絶望「変わり果てた姿でも、顔を見て一目瞭然でした」【女子中学生殺害遺棄事件/第2話】

8/23(日) 6:00配信



1418

コメント1418件



RSK山陽放送

■あまりにも残酷な現実との直面


警察署の一室で、何が起きているのかも分からないまま待たされること数時間。ついに開いた扉の向こうから告げられたのは、わずかな希望を無残に打ち砕く、あまりにも残酷な事実でした。


(寺輪 悟さん)

「(警察署の)一室に2時間か3時間閉じ込められました。その間、何が起こっているのか全然分からないんです」


「やっと扉が開いたと思ったら、


『少し離れた南署へご同行願います』


というような連絡を受け、私は警察車両に乗り、四日市南署に行き、警察官の方に連れていってもらいました」


■娘の足に残された「水色のマニキュア」


目を覆いたくなるような現実。それでも、そこに横たわっているのは間違いなく探し続けていた愛娘でした。


(寺輪 悟さん)

「それでも、そんな変わり果てた姿でも、探していた博美だということは、顔を見て一目瞭然でした」


(寺輪 悟さん)

「私は、『間違いなく探していた博美です』とその場を後にしました。


最愛の娘の無残な死、という受け入れがたい現実に直面した寺輪さん。しかし、そんな遺族を待っていたのは、マスコミによる執拗な取材というさらなる苦痛でした。


講演会は徳島県警察本部が開催したもので、警察学校の初任科生や市民など約140人が聴講しました。


【第3話】へ続く

「私はすぐさま殺しに行きました。飛びかかりに行きました」裁判所で娘を殺害した少年に対面した父 遺族を襲うマスコミの過熱報道と司法の壁「減刑された理由はなんですか、裁判長」





https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rsk/2814286?display=1



「私はすぐさま殺しに行きました。飛びかかりに行きました」裁判所で娘を殺害した少年に対面した父 遺族を襲うマスコミの過熱報道と司法の壁「減刑された理由はなんですか、裁判長」【女子中学生殺害遺棄事件/第3話】

「私はすぐさま殺しに行きました。飛びかかりに行きました」裁判所で娘を殺害した少年に対面した父 遺族を襲うマスコミの過熱報道と司法の壁「減刑された理由はなんですか、裁判長」【女子中学生殺害遺棄事件/第3話】 | 岡山・香川のニュース | 天気 | RSK山陽放送

2026年8月21日(金) 20:00

国内

「加害者と初めて会ったのは逆送検、家庭裁判所です。逆送が妥当かどうか審議する場で、私は初めて会いました」


2013年8月25日、三重県朝日町で、花火大会から帰宅中の女子中学生が見ず知らずの男子高校生(当時18)に殺害された上、自宅から約750m離れた空き地に遺棄されました。


命を奪われたのは、当時中学3年生の寺輪博美さん(15)。


事件から数日後、博美さんは、変わり果てた姿で発見されました。



博美さんの父・寺輪悟さん(58)が、事件で娘を失った耐え難い経験、マスコミによる理不尽な取材、娘を殺害した少年の裁判、事件によって突然失われた平穏な生活など…当時の心境について語りました。


そして、寺輪さんは「あって困る人はいない」と、全国の都道府県・市区町村単位で約6割ほどの制定にとどまる『犯罪被害者支援条例』について、全ての自治体で必要だと強く訴えました。


【第2話】から続く

事件から数日後、真夏の空き地で発見された15歳娘 対面した父の絶望「変わり果てた姿でも、顔を見て一目瞭然でした」




間違った情報と実名報道 遺族から「帰る場所」を奪ったメディアの暴力


▶この記事を最初から読む ▶【写真】講演会の模様

変わり果てた姿の博美さんと対面し、極限の精神状態の遺族を待っていたのは、執拗なマスコミによる取材でした。




(寺輪 悟さん)

「警察を後にし、自宅に帰ろうとすると、次は報道関係です。県外、県外、県外、貸切、貸切、貸切、貸切、貸切です」


「黒塗りハイヤー、最低でも6台ありました。20人はいたでしょう。私たちは家に入ることもできず、そのまま素通りをしていきました」


「そしてビジネスホテルに泊まり、3週間そこにいることになります。テレビをつければ、あることないこと、全国放送で事件のことを取り扱っています」


「なんの真実もないのに、間違った報道をバンバンバンバンされます。そこで一番驚いたのが実名報道です」


「加害者には人権がある。死んでしまった者には、もう人権は一切ありません。だから何をしてもいいんです。そこに未成年は関係ない。だから実名がバンバンバンバンと報道されます」


「博美が、本当の意味で葬式が終わり、家に帰ったのは3週間後です。もう9月の半ばでした。それぐらい、家に寄り付くこともできませんでした」




「奴らはしつこい」友人を装い葬儀場まで来た記者も


▶この記事を最初から読む ▶【写真】講演会の模様

押し寄せるマスコミのカメラ。葬儀場にまで忍び込む一部メディアの異常な行動について寺輪さんは、逃げ惑うしかなかった苦悩を振り返ります。




(寺輪 悟さん)

「一番大変だったのは、まずマスコミ対策です。奴らはしつこい。そして加害者不在ということで、一体事件で何があったのか分からない。ですからそれをエサにして、過熱報道がヒートアップします」


「そして被害者の家に、容赦なく押し寄せます。そのあり方にも問題提起はいろいろしています。だいぶ今では改善されました。しかし現時点、私たちのときには、すごい報道の数でした。葬儀の中にまで、友人を装って入ってきた者もいます」


「葬儀場から出る私たちを撮るために、最後まで葬儀場で粘ってきた記者たちもいます。葬儀場の方は、『いつまでもいてもらっても結構ですよ』と、すごく優しくしてくれたことを今でも覚えています」


「しかしそんなことに甘えてもいられずに、友人の車と3台で駆け出して、一か八かでそこを飛び出しました。マスコミは本当にひどいのが現状です」


「皆さんのご家庭なら、どういうふうにマスコミ対策をするでしょう。一度考えてみてください」




被害者遺族が直面する過酷な現実とは


▶この記事を最初から読む ▶【写真】講演会の模様

突如として最愛の娘を奪われた絶望は、遺族の心身を容赦なく削っていきました。想像を絶する苦しみについて、寺輪さんは次のように語ります。




(寺輪 悟さん)

「家に帰ったからといって、ゆっくりできるわけではありません。なんにもできません。悲しみが押し寄せてきます」


「私は自分を責め、普段生意気なことを言ったけども、結局は博美を救ってやれなかった。やはり自分を責めます。これは親としては当然のことです」


「加害者が分かっていませんでしたから、何があったのか全然分からない。一体博美の身に何が起こったのか、どうしてこんな目に遭ったのか…」


「しかし博美がいなくなったことは事実です。誰かに殺された。そのことだけを考え、悲しむ毎日です」


「私は、17キロ痩せました。食べなくなると人間、歯も減ります。想像を絶する苦しみと、残された遺族は向き合っていかなければいけません」


「その悲しみを乗り越えるにはどうしたらいいのか。いろんなやり方があるんです。これはケースバイケースで、簡単に当てはまるものでもありません」








過去 30 日間

過去 1 年間

Masumi

人気の投稿