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この人は相変わらず訳の分からないことをグダグダ書き綴っているけど、本当のところ、大丈夫かな。
記事もますます筆が運んで絶好調と言いたいけれど、 ボリュームの割に何も伝わってこない。
この記事の何が問題なんだろう?
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- 先ず日本モデルと言うのが問題だ。安倍晋三が政府として何もしないで国民が勝手に身を守っただけの状況を日本モデルと言ったに過ぎないのに、何か確たるモデルスペックでも存在するように日本モデルという言葉を使う軽薄さが滑稽でしかない。勿論、本人も少しは分かっているから自分なりに定義づけをしようとしているようだが、それは言っても篠田英朗 モデルでしかない。
- 北大西浦の数理モデルと実態を比較していることにも奇異なものがある。実データとするものはモデリング用に正規化も何もやっていない。せいぜい移動平均ぐらい。検査データの詳細は持っていないし、オープンになっていないので当然だが、検査データと実際の感染にも乖離があるから、殆ど意味がないだろう。感染者の正しい数字など誰も分からないのに、たまたま見つかった数字だけを並べているに過ぎないのに。
- 篠田英朗の得意な日本モデルと見えている感染実態の比較はやっていない。当然。モデルになっていない。只の対策セットでしかないから。効果の有効性評価も出来ない。それが、日本モデルと言い続けることがこの人にとっては宗教みたいなものだな。
- この人は、数理モデルの見方も理解が無いようだ。抵抗ゼロの電気回路を眺めているようなもの。8月時点でまだこんなレベルの話を続け散ることに驚く。意識のある人は抑制的な行動で、数理モデルの理想状態から大幅にずれるのは当然のこと。
- 笑えるのは、ウエーブは必ず抑揚があるから、後半は減衰する。感染抵抗がゼロでも感染する人がいなくなれば収束する。実態は抵抗だらけだからピークも減衰もだらだらしたものになる。この減衰を見て、施策が成功しているように言っているが、何がどう上手くいったのか何の説明も出来ない。政府の無策に喝采を送っているのかな。第2波の説明は、得意の日本モデルでならどのように説明するのかな。何もしていない。
- 見る(読む)のも苦しいくらいに馬鹿かも。感染係数(再生産性)から感染数を推定するモデルと、曖昧なマナーの対策セットを勝手に日本モデルとして、比較しているのが馬鹿馬鹿しいくらいだ。全く次元が異なる話。
- 北大西浦は接触したら感染する。感染の度合いは接触の度合いの影響を受ける。あるモデルにパラメタを設定してみたら40万と言う数字になった。それだけの話だ。感染を抑えるには接触を抑えること。政府は素直に接触を回避することを促している。それだけで、矛盾も何もない。
- 現在の接触回避が十分か不十分かは 色々な観測データで確認するしかないが、とても楽観できる状況にはない。あと3カ月で、中国武漢の初期感染の時期になる。
- 篠田英朗の記事内容は回を追うごとにますます酷くなるようだ。そろそろ間違いに気づいてしっかり修正すればいいのにと思う。この人のハートフルな姿勢は誰だって歓迎している筈だ。もう少し頑張って下さい。
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http://agora-web.jp/archives/2047664.html
減速する陽性者拡大から観察できること ~ 日本モデル vs. 西浦モデル2.0の正念場⑥
2020年08月18日 11:31
篠田 英朗
8月10日に「鈍化する陽性者拡大 ~ 日本モデル vs. 西浦モデル2.0の正念場⑤」という文章を書いた。その後も新規陽性者数の鈍化現象は続いている。東京で見てみよう。
新規陽性者数
(7日間平均)
増加率
(前の7日間との比較)
8月11日~17日 258人 0.77
8月4日~8月10日 335人 0.99
7月28日~8月3日 338人 1.34
7月21日~27日 252人 1.15
7月14~20日 219人 1.30
7月7日~7月13日 168人 1.69
これを日ごとの7日移動平均値をとったグラフで見るとこうなる(参照:東洋経済オンライン)。
東京の新規感染者数は、都道府県単位では常に日本全国で最大の割合を占めているだけでなく、先行指標としての意味もあるので、多くの人々が注目してきた。実際に、8月の全国の新規陽性者数の推移は、東京の動きを後追いする形で、鈍化の傾向を顕著に見せている(参照:東洋経済オンライン)。
私が「『日本モデル』vs.『西浦モデル2.0』の正念場」シリーズで検証してきていることを、あらためて確認しよう。
4月半ばに「西浦モデル」は「42万人死ぬ」を派手に宣伝した。このときに前提としていた数値を修正したのが、5月に公表された「西浦モデル2.0」と呼ぶべきものである。基本再生産数や致死率のことは捨象しつつ、緊急事態宣言が解除されれば、3月下旬以降の新規陽性者数の拡大が再現されると予言したのが、「西浦モデル2.0」である。
具体的な数値の計算は変更したとしても、「6~8割の人と人との接触の削減」がなければ新規陽性者数の増加は集団免疫の獲得まで止まることはない、というのが「西浦モデル」の大前提である。たとえば「2~3割程度の人と人との接触の削減」であれば、曲線がわずかに緩やかになるだけで、新規陽性者数の指数関数的拡大という傾向に対する変化はない。これがオリジナル「西浦モデル」から「西浦モデル2.0」を通じて一貫した前提であり、そもそもの「SIRモデル」の前提であった。
西浦氏(FCCJ公式YouTubeより)
「日本モデル」が「西浦モデル」と対決するのは、二つの点においてである。
第一に、「日本モデル」は、新規感染者数の拡大と新規重症者数の拡大は、一定の固定的な比率では進まない、と考える。なぜなら高齢者や基礎疾患保持者は重症化しやすいが、そうでなければむしろ無症状者のほうが圧倒的に多いといった新型コロナの特性を考えれば、同じ新規陽性者数の拡大の場合でも、その構成内容は異なってくるため、重症者数との関係は一定ではない。また、そもそも重症者の絶対数についても、医療体制との相関関係においてその深刻度を評価すべきと考える。
7月以降の新規陽性者数の拡大の局面において、「日本モデル」は、その洞察の重要性を証明し続けた。新規陽性者の拡大ペースに反して、重症者数の増加を抑え込むことによって、医療崩壊を中心とした社会経済的なインパクトを抑え込むことにも成功した。
第二に、「日本モデル」は新規陽性者数の「ゼロ」化を目指さない。「人と人との接触の8割削減」を通じた新型コロナウィルスの撲滅という主張とは異なり、「日本モデル」は新型コロナウィルス撲滅の不可能性を洞察する。そこで「日本モデル」が目標とするのは、新規陽性者数の拡大の緩やかな抑制であり、要するに医療崩壊を起こさない程度に押さえ込んだ重症者数の抑制である。そこで「日本モデル」は、「西浦モデル」が要請する画一的な「人と人との接触の削減」ではなく、「三密の回避」などを通じた大規模クラスター発生予防を中心にした現実的な感染拡大の抑制を目指す。
8月になってからの新規陽性者数の拡大の鈍化の局面において、「日本モデル」は、その洞察の重要性を証明し続けた。「人と人との接触の〇割削減」を語ることなく、「三密の回避」などを中心にした大規模クラスター発生予防を中心にした取り組みによって、新規陽性者数の拡大の抑制に成功したのである。
5月3日に西村大臣が日本の政策の説明で用いた「ハンマーとダンス」の表現を用いると、「日本モデル」は、政策目標として掲げたとおり、ダンスの踊り方の形を模索している最中である。
「日本モデル」の現実に即した実績と、「西浦モデル」の抽象理論の予言の相違は、上記で示した現実の実績と抽象理論の予言のグラフの違いによって明らかであろう。
これをふまえて、現時点で確認しうる観察を記しておきたい。
消耗戦を避けながら、大きな感染拡大の芽を摘む
第一に指摘できるのは、新規陽性者数の拡大は、極めて人間的な事情で増減し、「人と人との接触の削減」以外の方法で管理されうる、ということである。7月上旬をピークにした新規陽性者数の拡大は、7月においても鈍化の傾向を見せていたが、ただ4連休の期間においてのみ拡大を活性化させる傾向が生まれた。しかしそれでも新規陽性者数の拡大を抑え込みたいという国民の努力は、大きな傾向としては、7月~8月を通じて、着実な成果を見せてきている。
つまり、「人と人との接触の削減」あるいは「緊急事態宣言」だけが、新規陽性者数の拡大を抑え込むための方法ではない、ということである。「三密の回避」などの「日本モデル」の地道な努力には、大きな意味があるのである。
また、国民意識が熟成するまえの早まった緊急事態宣言には、効果が乏しいだろう、と予測される。国民の危機意識があって初めて緊急事態宣言は機能するのであり、とにかく早め早めに実施すれば良い、ということではない。
第二に、ウィルスの弱毒化や、集団免疫の成立を証明する要素は、確認できない、ということである。仮にそれらの要素が働いていたと仮定しても、統計的に有意な差を生み出したと言えるかどうかを争うだけで、大勢には影響がなかった。重症者は生まれる。新規陽性者数の拡大と重症者数の拡大が反比例することはない。ただ抑え込めるかどうかが、重要である。
新規陽性者が減退する局面に入ると、異様な「煽り」報道に代わって、立証できない集団免疫成立論やウィルス弱毒化論や「SIRモデル」に代わる数理モデルなどが幅を利かせてくる。私は科学者ではないので、全ての立証されていない仮説に対して中立的だが、社会科学者として言えば、せいぜい統計的に有意な差があると言えるかどうかだけのことを争っているだけの立証されていない仮説によって大枠の政策を決めることはできない、とは感じる。
押谷仁教授(東北大HPより)
日本の新型コロナ対策の最重要人物である押谷仁教授は、「日本の戦略の肝は、『大きな感染源を見逃さない』」ことだと説明し、「消耗戦を避けながら、大きな感染拡大の芽を摘む」ことが重要で、「一人の感染者が多くの人に感染させるクラスターさえ発生しなければ、ほとんどの感染連鎖は消滅していく」という洞察が背景にあると述べている。(「巻頭インタビュー押谷仁教授 感染症対策 森を見る思考を」『外交』Vol.61, Jun/May, 2020)
様々な仮説を提示して検証を行うのは勝手にすれば良いと思うが、尾身茂分科会会長の下、押谷仁教授のような卓越した専門家の洞察を活かした「日本モデル」の努力と功績を、すべて単なる偶然とみなそうとする態度には、私は明確に反対する。
すでに結果が出ている。認めるべきだ。尾身先生や押谷先生は、日本の国民的英雄である。7月と8月の重症者数抑え込みと、新規感染者数の管理は、尾身先生や押谷先生の卓越した貢献があればこそだ。
第三に、4月期と7月期を通じて、東京などの大都市圏が全国的な傾向を主導し、濃密で長時間の接触が起こる環境が新規陽性者数の拡大の傾向を左右する、ということが相当程度に明らかになった。さらに重要なことに、その点に着目することによって、新規陽性者数の拡大の管理が相当程度に可能となることも分かった。
7月の集中的な検査実施によって、いわゆる「夜の街」とされた濃厚接触空間において、新規陽性者が多数確認できる傾向があることがわかった(仮に「夜の街」それ自体では重症者は生まれていないとしても)。結果的には、「夜の街」に対する集中的な検査実施は、新規陽性者数の抑制という結果に貢献したと言える。
逆に言うと、新規陽性者数に占める「家族感染」の増大や、それと同じ事情として東京への通勤者の多い神奈川県などの東京近郊圏の新規陽性者数に占める比率の増大は、新規陽性者数の減少が始まっている示唆となる先行指標であることも示された。
家族感染についても、予防の努力は無駄ではないと仮定したとしても、市中感染ルートと比して、著しく予防が難しいことは、間違いないだろう。逆に言うと、政策的な介入や、国民の行動変容によって容易に操作が可能なのは、たとえば「夜の街」のタイプの感染ルートであり、「7月の4連休」で増加したようなタイプの感染ルートである。
「日本モデル」は、決して新規陽性者数の拡大を完全に無視する態度のことではない。重症者数の管理を重視する視点をとったからといって、新規陽性者数の拡大がやがては重症者数の拡大につながる圧力となることを否定しなければならないわけではない。「日本モデル」の観点からしても、いたずらに心配しすぎるべきではないとしても、新規陽性者数の拡大は、やはり抑制が望ましい事柄ではあるだろう。
日本モデル、政策的なメリハリで着実に成果
「西浦モデル」であれば、「人と人との〇割削減」といった数値目標を至上命題とする余り、児童公園まで使用禁止にしてテープで封鎖することを要請するアプローチをとる。しかし、「日本モデル」であれば、より政策的にメリハリの利いた介入を重視する。
いずれにせよ、尾身茂先生や押谷仁先生ら、「旧専門家会議」「分科会」主要メンバーが推進してきた「日本モデル」は、着実な成果を見せている。
少なくとも旧専門家会議が招集された2月中旬以降の現実をふまえて自己設定した目標の達成度という観点で評価すれば、「日本モデル」は素晴らしい成果を収めている。
54兆円+αを費やすことを厭わず、全国民毎日PCR検査で絶対的な安心を提供せよ!といった、まるで非武装中立で絶対平和を達成せよ!のような非現実的で無責任な言説を流布して日毎の視聴率を稼ごうとするメディアの弊害にさえ気づけば、「日本モデル」の意義は明らかである。
「日本モデル」vs.「西浦モデル2.0」の意味は、今や「良識的な現実主義」vs.「現実を否定する机上の空論至上主義」の戦いの様相も呈してきている。
私としては、日本国民が「良識的な現実主義」を支持することを期待しつつ、あらためて一層の尾身茂先生や押谷仁先生が主導する「日本モデル」の称賛を表明しておきたい。
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