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新型コロナウイルス感染症COVID-19への政府側対応の不可解な様子が様々な形で報じられている。奥深く広がる闇の世界だ。
単なる利権の枠組みを超えた沈黙する組織。
ルーツは何処にあるか知らないが、軍事機密と一体になった感染症防疫行政の 世界は、民間の介入、情報の公開を甚だしく嫌ってきたに違いない。
感覚的には軍政の領域に生きているんだろう。使命感と特権意識と一体になった、民主主義社会と相いれない世界。
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医療行政の民主化に安倍晋三が取り組むとは思えない。
何を考えているか分からない連中だ。敵に回したくもない。
触らぬ神に祟りなしで済まそうとしているかな。
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細菌兵器の研究をしていたのが中国。それを今回世界にばらまいた。感染させた中国人を世界中に送り込むだけで十分だ。これはアメリカのフェイクニュースと思えばそれまでだが、真実は分からない。中国の対策が革新的だからだ。普通なら色々な疑い、可能性の中で対処するが、中国は最初から問題が分かっていた。特に関する情報の提供も早かった。意図的か、何かのミスか、両方の立場があったのか。よく分からない。
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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74905
731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」
2つの「日常」が重なった少年兵の記憶
現代ビジネス編集部
「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話していました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』なんて人もいましたね。まだ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作っていることも知ってましたよ」
たった14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。
関東軍防疫給水部本部、通称「731部隊」。満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行っていた。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発していたとされる。
14歳から17歳という多感な青春時代を、須永は「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言できる元隊員は少ない。満州の地で、彼はいったい何を見たのだろうか。節目の年に、あらためて話を聞いた。
むごたらしい人体実験の実情
731部隊の任務の一つが、敵兵を重篤な伝染病に感染させる「細菌爆弾」を製造することだった。部隊内で開発されていた「ペスト菌爆弾」は、病原菌を媒介するノミを爆発によってばら撒き、相手をペストに感染させる。長野県の高等小学校を卒業して731部隊へと入隊し、1年間の教育期間を終えた須永は、1943年頃からそのプロジェクト内の「焼成班」に所属していた。
「私の仕事は、ペスト菌爆弾の容器を焼き上げることでした。少量の火薬でペスト爆弾が爆発した後、粉々に飛び散って中身の細菌が生きたままばら撒かれるように、陶器製の容器が使用されていました。細菌兵器を作っていることについても説明を受けていましたよ」
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彼らが製造した爆弾の威力は、残虐な人体実験によって検証された。実験台として惨たらしく殺害されたのが、中国人やロシア人の捕虜たちであった。彼らは「丸太」に等しい存在とされていたため「マルタ」と呼ばれ、文字通りの非人道的な扱いを受けたとされる。
「実験施設から屋外の実験場にマルタを連行して、抵抗できないよう杭にくくりつけ、数メートル間隔で並べるんですよ。彼らのすぐ近くで細菌爆弾を炸裂させ、強制的にペストに感染させたうえで、身体がどのように変化するのか経過を記録するんですね」
このペスト菌爆弾の検証実験では、一度に10人以上の捕虜が実験台にされた。爆弾の感染力と効果範囲を測定するため、捕虜と爆発地点間の距離や火薬の量などを変化させて、何度も何度も実験が行われ、そのたびに罪のない捕虜たちがペストに感染させられた。
実験終了後、感染した捕虜が治療されるはずもなく、全員が数週間以内に死亡した。しかし彼らは死んでもなお、「実験台」として扱われている。爆弾の性能向上につなげるため、死亡した感染者の遺体は解剖されて、臓器へのダメージを徹底的に調べられた。驚くべきことに、須永のような10代の隊員たちも、この事実を知りながら平然と軍隊生活を送っていた。
2つの「日常」が重なり合う
「部隊内で人体実験が行われていることは、焼成班に配属された頃から知っていました。本部施設3階の窓から、中庭にいるマルタを見たことがあります。どこの国の女性かは分かりませんが、遠目に女性のマルタを見たこともありました」
初めて実験台である「マルタ」を見たときの記憶を、彼はこのように振り返っている。残虐な実験が基地内で行われ、しかも捕虜が実験台にされることに対して、特段の驚きはなかったという。当時の心境を須永はこう話す。
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「人体実験に使われるマルタは捕らえられたスパイで、死刑囚だと教育されていました。だから良心の呵責みたいな感情もありませんでしたね。14歳で入隊した当時の我々は、本心からお国のためだと思い、滅私奉公のつもりで任務に当たっていました。『この細菌爆弾が完成すれば戦局を変えることができる』と上官から言われていましたから」
須永以外の少年兵たちも同様だ。前述の証言の通り「人体解剖を行った」「軍用犬に細菌爆弾を運ばせた」といった会話は、部隊の少年兵たちにとってありふれた世間話だった。基地内で非人道的な生物兵器が製造されていることは周知の事実であり、10代の少年兵たちはその環境に慣れきっていたのだ。
その一方で彼らは普通の青年と同じような生活も楽しんでいた。
「私たちの班はハルビン市街地に近い建物で生活していたこともあり、他班に比べると自由度が高かったんじゃないですかね。休日は外出許可を得て、基地から市街地へ繰り出すこともありました。
そうそう、ハルビンの市街地で生まれて初めて水餃子を食べたんです。餃子自体、当時の日本にはありませんでしたからね。『あそこの店の水餃子は美味いよな』なんて、仲間と言い合ったものです。映画館に行ったりもしましたね」
しかし帰りに通る基地の入り口には、「何人たりとも関東軍司令官の許可なくして構内に入った者は銃殺に処す」と書かれた警告文が張られている。「初めて見たときは、ものものしい場所に来てしまったと思った」と須永は話す。
残虐な人体実験が当たり前のように行われていた基地の中と、美味しい水餃子や映画館がある外の世界。どちらも少年兵たちにとっての「日常」だった。
彼ら少年兵の経験を学ぶ意味
ソ連が国境を越えて満州に侵攻してきた1945年8月8日、須永が所属する少年隊は、機密保持のため施設内の研究室を破壊するよう命じられた。その後工兵隊が本部の建物を爆破し、証拠を隠滅したうえで撤退した。
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須永が後で聞いたところによると、一部の少年兵は不必要になった捕虜を直接「処分」させられたらしい。須永らが研究室を破壊している間、施設の一角からずっと黒い煙が上がっていた。少年兵たちが捕虜を殺害し、死体にガソリンをかけて燃やしていたのだった。
その後、須永らは朝鮮を経て日本へと戻った。帰国直後に感じた恐怖について、こう振り返っている。
「なんとか内地に戻ったものの、我々の部隊に所属していた者は『そのうちGHQに捕まって殺されるんじゃないか』という不安が強かったですね。731部隊で非人道的な人体実験を繰り返し、細菌爆弾を開発していたわけですから。でもそのうち、石井四郎部隊長が、実験データと引き換えに隊員を免責するようアメリカと取引したと聞いて、安心しました。率直に、うまくやってくれたなと思いましたね」
戦後しばらく沈黙を貫いた須永は、「部隊内で見聞きしたことは話してはならぬと徹底的に教育されていたから、終戦後も731部隊のことは家族にすら話さなかった」と語る。しかし7~8年前から取材に応じるようになった。
「731部隊のことが報道でこれだけ世に知られたので、『もう全てオープンにしてしまったほうがいいだろう』と生きている隊員たちで話し合い、数年前からメディアに出るようになったのです。非人道的な実験によって細菌兵器を研究していたのですから、今考えれば間違ったことだったと思いますよ。でも、当時はそれが当たり前でした」
軍上層部からの教育や環境への適応の結果、彼ら少年兵にとって、非人道的な人体実験は「美味しい水餃子」と同じ「日常生活」となった。異常な環境も戦時には「日常」となりうる。戦後75年を迎えてもなお、われわれは須永の証言から引き出されたこの事実を、見つめ続けなければならない。
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